取締役会長 高木 和夫
インタビュー

父の大工仕事を見て育った幼少期

昭和28年(1953年)6月生まれ。今年71歳になる高木会長は、嘉麻市生まれ、嘉麻市育ちで高校まで嘉麻市で育ちます。好きな動物は鳥で、伝書鳩がブームの頃から飼っていたそうです。そんな会長ですが、お父様が大工だったことから、幼少期から現場についていき大工の仕事を見ていたそう。

学生時代は大工になる気はなかったそうですが、「流されて大工になってしまった」と笑う会長ですが、高校卒業後は京都で建設会社に就職し、現場監督の仕事をしていました。

「当時は、言う事をきかない職人さんを追いかけ回して仕事してもらってたんです(笑)19、20歳だったので職人さんたちからなめられてたのもあって、会社から多少手荒な真似をしてもいいと言われていて、追いかけ回していました(笑)だんだん職人さんも言う事を聞くようになってくれて、それから自分に自信もつきましたね。

それから京都の建設会社で5年半ほど働きましたが、京都時代に大変だったことはとにかく長時間労働。朝8時ごろから夜の22時ぐらいまで職人さんが仕事をしている間、現場に立ち会わないといけないし、休みも月2回ぐらいしかありませんでした。」

やはり一度県外に出て、現場を一から勉強してくるというのは大事なことなんですね。そんな会長は、まだまだ昭和の厳しい労働環境の時代に、建設の現場を一から勉強し、その後嘉麻市に戻ります。

一から大工仕事を覚え、高木工務店を創業

嘉麻市に帰ってきてからは、お父様に大工仕事でもしろと言われ、ここで初めて大工仕事をするようになります。

「大工の経験はないけど、現場監督として現場をみてたのでやり方はわかると思ってたんです。でも実際やったらできない。とてもはがゆかったですね(笑)。そこから、一から大工仕事を覚えました。

京都の建設会社にいるときに、2級建築士の資格も取っていたので、図面が描けるんですが、京都では鉄筋コンクリートの図面ばかり描いていたけど、木造の図面ははじめてで、嘉麻市に帰ってきてからは木造の図面ばっかり描いてました(笑)」

会長が嘉麻市に戻り、大工仕事をして3年ぐらい経った頃に住宅金融公庫のローンの制度ができます。そこで、ローンの手続き関係をする人が必要になると思い、大工だけでなく工務店を始めます。それが、昭和42年に高木組としてはじめ、昭和47年に創業した木楽家・高木工務店です。

「銀行に行って、手続きのやり方などを教えてもらい、ローンのことを勉強しましたね。最初は農業倉庫とか、公民館、町営住宅などを建て、町の仕事(稲築町)をしていたんですが、ローンを勉強したこともあり、きっちりした仕事すればちゃんとお客さんはつくから民間の仕事をしようと思ったんです。」

自分の仕事は自分で取る

もともと人から指図されるのが嫌いな性格だったので、創業してすぐは、ほとんど下請けの仕事ばかりだったので受注先の会社とけんかばかりしていたそうですが、自分の仕事は自分で探そうと、いろいろな場所に顔を出すようになり、昭和56年ぐらいから、民間の仕事がくるようになります。

バブル崩壊後の再スタート

そして平成になり、バブル崩壊後4、5年経った頃からその影響で仕事が減り、当時6、7人いた社員だった職人さん達に半分以上辞めてもらうことになります。それが一番つらかったそうです。

「また公共事業にも力を入れはじめ、鉱害復旧事業をするようになりました。炭鉱の公共事業で、平成12年頃まであったんですが、それがなくなり筑豊関係の建築土木業者が半分以下になりました。でも高木工務店はもともと民間事業をメインにしていたので大丈夫だったんです。

でも平成16年ぐらいに一度廃業を考えたことがありました。会社を1回やめて、リフォームだけ弟とやろうかと思っていた時がありました。そんな、何かしないといけないと思ってた時に、ローコスト住宅のノウハウをおしえる会社があって、辞めるつもりだったけど、もう1回だけやってみようと、そこでおしえてもらってローコスト住宅をつくるようになりました。」

ローコスト住宅を知った上でのハイクオリティのよさ

一度は廃業を考えた会長でしたが、もう一度やってみようと思ったきっかけのひとつに、元社長の息子・博志さんの存在があります。

「博志が後を継ぐと言ったことが、もう1回がんばってみようと思ったきっかけでもありますね。そのためには会社の地盤づくりをしないといけない。それからローコスト住宅の建設をするようになったんですが、ちょうどその時に、ひのきを使ってる会社を知り、俺もやってみたいと思いました。総ひのき(そうひのき)の家をいつか造ってみたいと思いましたね。」

もう一度と再スタートを切った高木会長ですが、現在の木楽家・高木工務店に欠かせない“ひのき”と出会ったのがこの時期だったというのもなにか運命的なものを感じます。現在はローコストではなくハイクオリティを一番の視点においている木楽家ですが、高木会長のひのきとの出会い、そしてローコスト住宅を経験したからこそのハイクオリティ住宅の大切さがわかるのだと感じます。

「ローコスト住宅を建てているときに大変だったことは、仕入れ、業者さんとの値段交渉の仕方などノウハウを勉強するのはもちろんですが、自分なりにお客さんとの接し方も変わりました。少しでもお客さんが納得するように仕事をしたいと思い、ローコストの家でも柱をヒノキにしたり、使っていました。それから2、3年ローコスト住宅を建てていたんですが、完成見学会をするようになって、家が欲しいというだけで収入もなかったり、計画性がなかったり、クレームが多かったりするお客さんが出始め、といろいろと思うところもあったので、建てる私たちと同じように大事に考えてくれるお客さんのために本当に納得のいく家づくりをしたい、とハイクオリティの家を建てる経営方針に変えていきました。」

一番大事なのは“お客様との信頼関係”

髙木会長がそろそろまかせてもいいかなと思ったタイミングで、現社長の博志さんが嘉麻市に戻り高木工務店を継承します。社長の博志さんが、“木を楽しめる家”としての屋号『木楽家』をつけるようになったのもこの頃です。

「博志が帰ってきて3年ぐらい経ってから、初めて自分で営業して新築の契約をとってきました。それから新築の契約を自分でとってくるようになったのと、ちょうど私も37、8歳ぐらいの時に社長交代したので、今がいい時期かなと思って交代しました。

昭和40年代に家を建てた人はいまだにリフォームや新築の相談をしてくれます。親子二代で家を建てさせてもらった人もいます。20年、30年ずっと付き合いができる仕事をさせてもらってます。

僕は後世に続く仕事をするのが当たり前だと思っています。でも、当たり前のことが皆できない。先にお金の計算をしてしまう。自分の仕事をして、まずはお客さんからの見返りの前に、お客さんが満足する仕事をしないといけないと思っています。

皆、それができないからお客さんとのトラブルになるんです。住んでから後悔させているような家ならだめなんです。お客さんが建てた家を気に入らなかったら、壊してでもやり直すつもりでやっていました。お客さんが満足していたら、ずっと付き合いができるんです。目先のお金のことを考えたり、ここまでやってあげてるのにと思わないことが大事だと思います。」

髙木会長は、自身のことを“なんにしても、ひっこまない。諦めない。譲らない。何事にもめげない。行動力がある。それが当たってる”と言います。そして、仕事で一番大事なことは“嘘をつかない、裏切らないこと”。

「特にお客さんにたいして“嘘をつかない、裏切らないこと”がとても大事だと思っています。家を建てる上で、まずはお客さんとの信頼関係を築く。口先だけだとすぐバレます。適当な喋り方になるのですぐにわかるんです。」

高木会長とのお話を通して、博志社長が、“お客様が満足する家づくり”を一番に考えていることが、会長の“お客様との信頼関係”を第一とする考えが引き継がれているのだなと感じました。

「会社を継ぐということは、先代社長を超えること。そろそろ超されるかなと思っていますが(笑)今後の夢は、ゆっくり畑仕事をしたいですね。孫と遊んだりしながら。そして、孫が4代目になるのも楽しみにしています。」

高木会長が築いた木楽家・高木工務店を引き継ぎ、嘉麻市の家づくりをお客様に寄り添い、会長が大事にしている“お客様との信頼関係”は、確かに博志社長に引き継がれているのだなと感じました。木楽家・高木工務店の思いは、これからもお客様の幸せな家づくりに生き続けます。

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